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岐阜市の繁華街から東へ徒歩10分程のところにある梅林公園。地名も岐阜市梅林。
金園町通りから1本、2本と道を横切り公園内に足を踏み入れると、街中とは思えない静けさです。
篠ヶ谷(ささがたに)神社前の広場には、元岐阜市長による次の碑文を掲げた頌徳碑があります。
岐阜市上加納の素封家篠田祐助氏が明治初年この地をひらき梅樹千数百本を植えて庭園とし、これを篠ヶ谷園と名づ けて一般に開放され市民相つどう散策地となる
昭和二十三年当主篠田祐八郎氏は先代の志を継ぎこれを岐阜市に寄贈されここに風趣をもって知られる梅林公園をみるにいたる
南面する地形の妙と早春に咲きにおう梅花の美はいこいの地としてながく市民をなぐさめるところとなろう
ここにその徳をたたえてしるす
昭和三十六年二月
岐阜市長 松尾吾策 書
所在地 岐阜市梅林1番地の1 外1
開設年月日 昭和23年4月6日
面積 2.90ヘクタール (内 寄贈面積1.3ヘクタール)
植栽 梅を主として約32種 3,000本余り:
梅1,300本(白梅700本 紅梅600本)約50種 桜110本 紅葉100本 松50本
きんもくせい22本 けやき14本 つつじ100株 茶の木850株
その他500本余り
主な広場 芝生広場5,000平方メートル 子供広場3,300平方メートル
梅林公園はもと上加納村の素封家、篠田祐助氏(現在平成薬品経営篠田祐八郎氏の先祖)が私邸の庭園篠ヶ谷園(ささがたにえん)であったものを昭和23年に土地、庭園共に岐阜市へ寄贈。
これに隣接の南側民地を買収、拡張し公園としたもので、歴史は比較的新しい。
昭和26年からは毎年2~3月にかけて「ぎふ梅まつり」(現在は3月の第1土、日曜日)が開催されている。
延べ30万人もの人が花見に訪れ、市民に最も親しまれる公園の1つとなっている。
昔は地名を「たたら谷」とか「たらら谷」と呼ばれていた。
「奇岩の露出した所」・「足で踏んで空気を送る大きなふいご→製錬所」・「だらだらした丘」などという意味がある。
このあたり一帯は湿地帯が近く、山麓には雑木、雑草が繁茂していたため、キツネ、タヌキ等の野獣やマムシ、ムカデ等も生息していた。このため農夫や木こりでさえ寄りつくことが出来なかった。
また、秋、冬ともなると、山奥からシカやイノシシ等が食餌を求めて出没し、現在の芝生広場一帯の農作物を荒らし大きな被害を与えていた。
そこで、この防止策として明治維新前、この地を治める加納藩では「竹税」(*1)を賦課し、この竹を使って竹矢来(しし垣)を築き鉄砲番を常住させた。野獣が襲来すると空砲を放ち威嚇したと言われている。
この制度は明治初年まで実施された。
しかし、藩や地元村では年々「竹税」が負担となり苦慮していた。
そこで創園者篠田祐助氏はこの地の開発計画をたて、明治初年以来造成に着手。当時この計画には瑞龍寺の高僧綾州和尚の協力があったと言われる。
その後、明治12年伊勢国の儒者山田松斎により「篠ヶ渓園」と命名され明治14年に開園式を行った。
以来、毎年補植を行いながら整備し、今の梅林公園の前身となる。 ところが、第二次世界大戦によりその管理や運営が満足に出来なくなって きたこと等から、昭和23年4月に岐阜市に寄贈、以後、正式に「梅林公園」 となり現在に至っている。
*1竹矢来(しし垣):瑞龍寺の東端から東へ山麓沿いに湾曲して二軒屋まで約1kmにわたって築かれた。
当時、 しし垣の外に掘られた濠が今も園内の池として残っている。